人の脳はある刺激に対し反応し、何らかを出力する。
その関係は出力をy、刺激の入力をxとすると
y=axという関係式で表せる。aは人それぞれの経験や知識、信条、運動による反射などからそれぞれ異なる。
aが0の場合とは、
無関心なこと、既に知っていると信じていること、耳をふさぐこと等
aが∞の場合とは、
絶対であること、神の指示であること、絶対である者の指示であること等上げている。
東大の教え子の中から、オウムや他の怪しげな新興宗教に染まっていくのを見て、運動による反射を説いている。
今の時代には無い軍隊生活では男子の誰もが、軍隊生活の中で入力(突撃命令)に対し速やかに、出力(とにかく突撃)する訓練を受けた。
上官の命令権限は∞であることを、様々な訓練から体に染み込ませた。
オウムでは麻原がヨガの修行から得た肉体的超人さを、運動経験のない学生に見せつけその指導により運動能力が進化出来ることを実感させることで、指導の何もかもを信じさせていった。
私の学生時代70年安保改定で学生運動が盛り上がった時期でした。あるグループから入会を求められた言葉を思い出します。
会の論理的な意味や説明を求めたが、
「大変なことだから反対運動しなければダメだ」「大事なことは反対運動のなかで学んでいける」と言う。
デモへの動員に焦っていると見て断った。
最近は「健康に良い軽いスポーツ活動」「同好会」「XXXサークル」などの集まりへの参加を餌に、入会・入信を誘うケースが多いようです。
その会の実態を知って悩めば「活動が足りない」「信心が足りない」「誠意がない」「バチが当たる」と脅す。

絶対の存在は神である。神は一(人で)あり絶対に正しく、人はその導きに従う義務がある、と信じる一元神宗教であるユダヤ、キリスト、イスラム教の信者は世界の三分の二に上る。
絶対の神の指示を、伝える導師、 もしくは牧師の言葉もまた絶対とする人々が世界人口の半分くらいを占めているようである。
信じていない人たちは未開人であり、救う義務があると信じる信者も少なくない。

バカの壁はaを0にして行く行為で、
これは知っている、これは既に見ている、やる意味がない、と外部からの入力に対し何も出力出来ない。
分からない事も、
ググれば分かる、説明してくれれば分かると信じている。
これに対し、サッカーを何試合見てもサッカーは出来ないし、野球もゴルフも出来ないし理解したことにはならず、「知っている」という低い壁を設けたに過ぎない。

aを変えるには、壁を超える必要がある。
少なくとも一段の高みに立つ必要があります。
一つの例として
自分が癌の告知を受けたときに、桜の見え方も変わるだろうと言っている。
一つの知識が、ものの見方を変えた。即ちaが変化したことだとしている。
一つの重みのある知識が、aを変えていき、
aを変えていくには、理を学んでいかなければならない。
しかし、理とは?
周りの人との関係を有効にするものであり、、、、

自然の中で自給自足し、部族や集落の中で共同作業で暮らしてきた先祖が、平安時代に中国から都市を輸入、遷都した。
江戸時代には世界最大の都市を設け、新幹線が都市をバラマキ、小さな集落は若者には好まれない場所になった。
大きな災害も、その地域を都市化する方向で進んでいる。
頭の良いお上が、地図上に線を引いて、小さな都市を作る。農地改革や新幹線引きから続く都市化の嵐である。
会社も業績によって社員を整理しやすい仕組みにしたことで、共同体としての信頼を置くことは出来ない。
否応なしに都会人となった我々は、どう生きるかをaに悟らせなければならない。