アメリカはとても広い国なので、旅行するならそれぞれの興味に応じて的を絞ることが大切です。
魅力的な東と西の都市の間は時差が3時間もあり、その間は誇大な畑や荒れ地が果てしなく続いています。

広いのは土地だけではありません。多様な民族が住んでいて、宗教も様々。
貧富の差も大きく、善良で勤勉な中間層も、その土地では両親の生活水準を維持出来なくなってます。
南米からの移民希望者や紛争地からの難民も多く、彼らは生きるために最低賃金以下でも喜んで働き中間層に下からも這い上がってきます。
アメリカでは、上位1%のお金持ちがお金や投資資産の約半分を握っているそうです。
トランプ大統領はこれらの裕福な人々を減税で優遇し、低所得者や移民などが経済的な理由で6人に1人が加盟出来ていない健康保険を10人に1人以内に改善しようとしたオバマケアを廃止しようとしているようです。

アメリカには、ものすごい金持ち、音楽の世界で活躍する黒人もいるアメリカンドリームの国と言われています。
しかし、ロスの海岸線のTシャツ屋、ニューヨーク摩天楼近くの韓国焼き肉の臭い、チャイナタウンの発展と中国製品の台頭もあって、高級な衣服に身を包み大散財する東洋人も目につきます。
テキサス州のオースチンに団体で研修に行ったとき、空港で黒人のポーターがイエローモンキーと低くつぶやいたのが印象的でした。見えにくいですが、白人は黒人を差別し黒人は豊かな黄色人種を妬む壁はあるようです。

1950~70年の間は絶対的な力を誇った国でした。田舎に住む私にとってTVドラマにみるアメリカはまるで別世界で憧れました。

かってはモノづくり世界一の大国を支えた工場労働者やこれらを監督するマネージャー業は無くなり、海外からの留学の影響による教育費の高騰もあって、若い人は親の代の暮らしは、もう出来ないと言われるようになりました。
大学もアファーマティブ・アクションとして人種的に採用基準が設けられる州も多く白人にとっては逆差別と感じることもあるようです。
やっとこ入学しても千万円単位の奨学金ローンを抱え職探しする新卒者も多いようです。

シリコンバレーのベンチャーで業務マネージャーをしていた日本人の知り合いも娘の大学費用工面のために、こつこつ買いためた自社株を不利な条件で手放したと涙ながらに言ってました。自分の老後資金を子供に託してしまった訳です。

都会に住む黒人や白人のホームレス、20年以上切れ目なく続く中東戦争の影響も見えます。


テキサスのオースチン郊外のトレーラ(20台くらい)に暮らす人々、居留地区でお土産屋や小さな小さなカジノを営む先住民族なども厳しい暮らしの様子も見えます。
犯罪も多くサンフランシスコ、ロサンゼルス、ボストンのレストランでもトイレに行くにはカギを渡されます。悪者がトイレに潜んで用足しに来る人を待ちぶせさせない仕組み。

日本も海外生産移管や非正規社員という仕組みで企業は利益を上げてきました。アメリカから技術を得て(一部は盗んで)工場を建てましたが土地や人件費の高騰もあり、台湾、韓国そしてフィリピン、タイ、マレーシア、中国、メキシコ、東欧に工場を移管しました。
最初は管理しやすい近場の賃金が安く移転先の国から工場建設の資金や用地で優遇を期待できる国に移管しましたが、どうせ輸出するのですから、遠いアジアから船で送るより消費地の製品ならば近場でとアメリカやEUに近い国に移管しました。
しかし、日本の成功から技術、マネージメントを学んだ韓国、台湾、中国が日本に成り代わり製造業の覇者になったのは、あっという間の出来事でした。

複雑な差別意識を抱えるアメリカには、もちろん上から目線もあります。アメリカには7年前に東海岸の美術館を巡る一人旅でボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンに行きました。その前に息子とロスのベニスビーチ、ハリウッド見物とフェニックスからグランドキャニオンとセドナを巡るドライブを楽しみました。

 これまでも仕事で20年間出張ベースで訪問しました。ラスベガスのCESには前身のウェスコンショーを含め数回、サンフランシスコとシリコンバレーや南カルフォルニアに点在するスタートアップや小企業、そしてサンディエゴとメキシコ側のティファナの家電工場、フロリダやフェニックス、オースチンの半導体工場を訪問しました。
専門商社の営業でしたので、アメリカ製半導体メーカの研修や不具合問題、価格や納期問題の調整に工場を訪問しました。その後、新商品開拓のためにアメリカ企業を訪問し日本市場で販売出来るよう商権獲得交渉が多くなりました。
この頃には、まだ日本の半導体を凌駕する製品も数多くありましたが品質の高いモノ造りの面では後れを取り始めていました。しかし、半導体製品にプログラム出来る製品が誕生し徐々にソフトウェアのサポートが重要な課題となり、様々なソフトウェアを開発するメーカーが誕生しました。
こういったメーカーを訪問し日本での販売権を求めるとソフトウェアエンジニアを100人集められるなら与えても良い等強気な姿勢でした。
多くの日本の電気機器メーカが衰退を始めたのはこの頃だと思います。半導体の集積回路は英語でIntegrated circuitと言いますが、既にこの頃はIndian & Chinese と言われるほど移民や台湾、中国人が卒業後職を得る場所でした。