ルノワール
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ルノワール 大好きな画家です 1886年4月デュラン=リュエルがニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開催、評判となり沢山売れ人気になりました。以来、アメリカの美術館にはたくさんの印象派名画が展示されています。印象派好きの皆さんアメリカ東海岸にある作品もこのブログで観てください。『ウィキペディア(Wikipedia)』の記事を参考に、作品を年代順に並べています。ルノワールは、1841年に生まれ13歳、磁器の絵付職人の見習いになりましたが、17歳で失業し扇子の装飾などの職人をしていました。1861年20歳の時、画家を志しシャルル・グレールの画塾に入り、モネ、シスレー、バジールらと知り合います。 23歳、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選しますが経済的には苦しく、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もありました。
熱心に模写を続けていて、撮影出来ませんでした。有名な絵は貸し出しされることもあり、所蔵美術館に行っても必ず見られるとは限りません。日本に来た時にやっと観れたこともありました。
28歳、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べました。
29歳、普仏戦争勃発、騎兵隊に従軍し30歳でパリに戻った。 戦後、サロンは保守性が強くなり、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続きます。33歳、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立しグループ展を開催。後に「第1回印象派展」と呼ばれます。新しい表現を志したグループ展は、世間から酷評にさらされ、経済的にも成功しませんでした。下の踊り子を出展。1873年から1875年にかけて、モネのもとを度々訪問し、一緒に制作して風景画の傑作を生み出しています。
ヴィクトール・ショケ、ジョルジュ・シャルパンティエといった愛好家も獲得しますが、特に出版業シャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンでした。後に最初に上げた絵のモデルを務めた女優ジャンヌ・サマリーともシャルパンティエ夫妻の家で知り合います。ジョルジェットちゃんは東京八重洲口のアーティゾン(旧ブリヂストン)美術館にいますから何時でも会えます。
36歳、第3回印象派展に出した、大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は厳しい評価を受けます。画中の人物たちはルノワールの友人で、多くの人物の名前が判っているそうです。木々の木漏れ日が地面や服に映り印象派の特徴が際立つ一枚で、私は好きな絵です。
37歳、絵を売ることを重視し、サロンに再応募して入選します。その後もサロンへに応募し、入選します。第4回から第6回までの印象派展にはゴーギャンらとの意見の違いもあり、参加しません。
38歳の頃、後に妻となるアリーヌと知り合い、交際を始めます。 手前で小さな犬と遊ぶ女性が、お針子だったアリーヌ。
パリ郊外、セーヌ川沿いにあるブージヴァルのカフェは、都市に住む人々にとって憩いの場で、ルノワールをはじめ、印象派の芸術家たちも集います。作品の主役は麦わら帽子に青い服の熱心な男性と赤い帽子裾から白いペチコートがのぞく淡いピンク色を着た女性はモデル、シュザンヌ・ヴァラドンです。有名な『都会のダンス』や下の『風景の中の裸婦』『大水浴図』のモデルも務めています。ヴァラドンは1883年に男の子を産みます。7年後この子はスペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリリョに認知されて、「モーリス・ユトリロ」と改姓します。ユトリロはルノワールとの間の子とも言われています。
1881年40歳、アルジェリア、次いでイタリアを旅行、イタリアにはアリーヌも同行しました。ローマでラファエロの作品を観て大きな刺激を受けています。41歳、画商ポール・デュラン=リュエルの説得もあり、第7回印象派展に『舟遊びをする人々の昼食』などを出展。明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まりました。42歳頃から47歳頃にかけて、デッサン重視の冷たい感じの「アングル風」の時代が訪れます。その集大成としてこの『大水浴図』を制作しました。モデルはシュザンヌ・ヴァラドン、何回も筆を入れ直したので、傷みがあり美術館から持ち出しにくい絵としても有名です。
1885
50歳を過ぎると、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作。評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりします。 私生活では、アリーヌと正式に結婚しました。
関節リウマチの療養のためもあり、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、カーニュ=シュル=メールで過ごし、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けました。1919年没。
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