モネ 2 ジベルニー
1883年、引っ越しを繰り返したモネは幼い子供二人と、パトロンだったが破産したエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデと子供6人の家族とセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り、生涯ここで暮らします。
パリ市内から往復5時間弱の日本語通訳付き(変な日本語ガイドでした)ジベルニーモネの家と庭見学ツーアで気楽に訪れることが出来ます。
1886年にニューヨークで画商デュラン=リュエルが印象派の展覧会を開き、好評を得てからは経済的に安定するようになり、1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけています。
小雨のジベルニーの庭
パリ市内から往復5時間弱の日本語通訳付き(変な日本語ガイドでした)ジベルニーモネの家と庭見学ツーアで気楽に訪れることが出来ます。
1886年にニューヨークで画商デュラン=リュエルが印象派の展覧会を開き、好評を得てからは経済的に安定するようになり、1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけています。
小雨のジベルニーの庭
モネは1890年、しばらくの間旅行を諦め、借地だったジヴェルニーの家を購入し家の周りに作った「花の庭」に手を入れてたり、自宅の周りの積みわらを描くことに集中します。庭に小道を設け、それぞれに異なる趣の花を植えました。それ自体、丹精込めた美術作品だと思います。
1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、ひとつのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心。同じモチーフで複数の絵を描くという手法は、中近世の月暦画やミレーの四季連作のほか、モネが愛好していた葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』といった浮世絵から発想を得た可能性があると言われています。
- 『積みわら、日没』1891 ボストン美術館
- 『積みわら、雪の効果』1891 ボストン美術館
『積みわら』に続き、1891年春から秋にかけて、エプト川近くのリメツ沼の岸辺で、『ポプラ並木(英語版)』の連作を描きます。 構図は、連作を並べて展示することを意識したもののようです。
1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネはアリスと結婚します。アリスの一番小さい連れ子は、モネの子ではないかと言われています。また、日本美術愛好者の集い「Les Amis de l'Art Japonais_」(1892 - 1942)の会員にもなりました。
モネは、1893年にジヴェルニーの隣の敷地も購入、リュ川の水を引いて睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作り始めます。水の庭は1895年からモネの作品に現れ、1898年からは沢山絵描かれます。実際の水の庭、奥に緑の太鼓橋が見えます。
モネはジヴェルニーで、夏は太陽が出るずっと前に起床し、セーヌ川支流の風景を描きにいくという日課を守っていた。 早朝、物が色づき始める時間帯に、朝靄の効果をとらえた作品を続けて制作し、1898年6月、ジョルジュ・プティ画廊ので成功を収めます。 なお、1897年、長男のジャンと、アリスの娘ブランシュが結婚ています。 「睡蓮」第1・第2連作(1900年代) 1900年までの『睡蓮』第1連作では、日本風の太鼓橋を中心に、睡蓮の池と枝垂れ柳が、光の変化に従って描かれている。 『ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池』 1899 フィラデルフィア美術館
モネは1901年、睡蓮の池を拡張する工事を行い、1900年代後半まで、『睡蓮』第2連作に取り組み、第1連作の太鼓橋は見えず、池の水面が大きく描かれます。また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に水面に移る空や柳の影が主役になっていく。 1909年「睡蓮、水の風景の連作」と題した個展を開き、大成功を収め称賛を集めます。 新聞には、48枚の絵を一体の装飾として保存すべきだという議論も掲載されたが、まとめて買い受ける収集家は現れず、多くはアメリカに渡りました。 『睡蓮』1905ボストン美術館
1911年5月には妻アリスが亡くなり、1914年2月には長男ジャンが亡くなります。印象派の同志たちも次々世を去りますた。 老人性白内障から絵具の色も判別できないという絶望の中、多数の絵を引き裂き、1909年から1914年までの絵はほとんど残っていません。アリス死後は、その娘ブランシュ(ジャンの妻でもあった)がモネを精神的に支えました。1914年、モネ作品14点を含む収集家イサック・ド・カモンド伯爵の遺品コレクションがルーヴル美術館に収蔵されることになったが、死後10年たたないとルーヴルに展示されないという原則からすると異例のことで、モネは、ルーヴルに招かれ、特別室に展示される自作を目にします。 1914-17マルモッタン美術館
友人で当時の首相ジョルジュ・クレマンソーに、国に一連の大装飾画を寄贈することを約束したが、、白内障のため失明の危機に直面し、クレマンソーは仕事を放棄しようとするモネを励まし、1923年、ようやく右目の白内障の手術を受け、視力はある程度回復します。 約束していた引渡し期限を延期し、残りの生涯をかけて『睡蓮』大装飾画の制作に没頭。 1926年12月5日正午に86歳で永眠。 オランジュリー美術館2つの楕円形展示室があり、ジベルニーの四季を描いています。
ジベルニー追記
モネは1883年にジヴェルニーの家を借りたが、当時その敷地は果樹園と家庭菜園であった。1890年に地所を2万2,000フランで買い取ると、果樹園の樹木を伐採して、庭師の助けを借りながら「花の庭」を造成していった。
ルーアン滞在中には、植物園の園長から珍しい外来種の育て方について助言を受け、1893年には、園芸を趣味とするカイユボットの助言を受けて温室を作った。
ルーアンの植物園から分けてもらった植物や、国内外から取り寄せた珍しい植物を数多く植えていった。全26巻の植物図鑑を所有し、ことあるごとに参照していた。
1893年、鉄道線路を挟んで隣の土地を手に入れた。
エプト川に流れ込むリュ川という小川が貫流し、小さい池のある土地であり、周りには植物が生い茂っていたが、モネはここを「水の庭」に造成していった。
1893年から1901年までの造成で、日本から輸入した睡蓮を根付かせるため、池の水を温めようとして池の東西に水門を設けたが、これは周囲の住民から抗議を受けた。
また、池に日本風の太鼓橋を作った。睡蓮や太鼓橋にちなんで「日本庭園」と呼ばれたが、石庭などの要素はなく、伝統的な日本庭園とは異なる。
制作の旅先からも、アリスに、「家の庭や球根がどうなっているか気になる。池の氷に注意してくれているだろうか」(1895年)などと庭の様子を案じる手紙を送っている。
1901年には第2次の造園工事を行い、庭園が拡張され、リュ川の水が引かれた。池の周囲は200メートルに及び、現在公開されている水の庭の姿をほぼ整えた[410]。太鼓橋の上には藤棚が設けられた。
庭園には、睡蓮、橋、枝垂れ柳、アイリス、アガパンサス、バラの門といった要素がモネのイメージに基づいて入念に整えられ、それ自体がモネの芸術作品となった。
モネの家と庭園 モネの死後は、唯一の相続人は二男ミシェル・モネであったが、ジヴェルニーには不在だったため、アリスの娘ブランシュ・モネ・オシュデ(ジャン・モネの未亡人)が屋敷と庭園の管理に努めた。
1947年にブランシュが亡くなったあとは、敷地は荒れてしまった。
1966年、ミシェル・モネが自動車事故で亡くなり、その遺言によりジヴェルニーの地所とコレクションは美術アカデミーに寄贈された。
美術アカデミーから修復を託されたジェラルド・ファン・デル・ケンプ(フランス語版)が民間の募金を集め、3年がかりの修復工事を行った結果、1980年、クロード・モネ財団(英語版)が設立され、以後一般に公開されている。
Claude ?Oscar Monet 1840-1926 晩年を過ごしたジベルニーの庭園を描いた多くの作品を残しています。
多くの浮世絵や錦絵のコレクション、好きな作家の絵画そして池に太鼓橋や柳を配した大庭園。牛が草を食む田舎の村に自分の好きな世界をつくり、ひたすら描いた。強烈な頑固者とも思えます。
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