モネ 1 楽しくて厳しい生活
オスカル=クロード・モネ Oscar-Claude Monet 1840-1926(86歳)
1845年ごろ、モネの一家は父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営むノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住。少年時代の大半をル・アーヴルで過ごします。
以降、モネは生涯のほとんどをセーヌ川沿いの町で過ごすことになり、のちに自ら「セーヌ。私は生涯この川を描き続けた。あらゆる時刻に、あらゆる季節に、パリから海辺まで、アルジャントゥイユ、ポワシー、ヴェトゥイユ、ジヴェルニー、ルーアン、ル・アーヴル……」と回想しています。
子供のころから戯画が得意で、近所の人の求めに応じ描いています。戯画の注文で2000フランを貯めて、父にパリ行きを認めさせました。
『オンフルールのバヴォール通り』1864頃ボストン美術館
1859年にパリに出てアカデミー・シュイスで絵の勉強を始め、ピサロ他と知り合う。
1861年、徴兵を受け、アフリカ方面の連隊に入隊し、秋からアルジェリアで兵役を務め、1862年、病気(チフス)のため6か月の休暇を得てフランスに帰国。
パリで後見人親戚の画家オーギュスト・トゥールムーシュの勧めで、シャルル・グレールのアトリエに入り、ここでアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと知り合います。
『草上の昼食』1965-66オルセー美術館
縦4.6メートル、横6メートルという大作です。ギュスターヴ・クールベに批判されたためか、サロンには出品しませんでした。後に、モネ自身によって切断・分割されて、そのうちの中央部分と左部分の2つがパリ・オルセー美術館で展示されています。
代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女』と『シャイイの道』は2点とも入選を果たします。
『緑衣の女』は、当時知り合ったばかりの恋人カミーユをモデルにしたものでした。
この頃、ザカリー・アストリュクの紹介で、マネとも面識を得ました。 1866年のサロンで、エミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙にモネを賞賛する記事を書いた。これを読んだ父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思い、仕送りをしてくれるようになりましたが、新聞で批評家に褒められても絵は売れません。
父はその年の末、カミーユと別れれば再開すると条件をつけて、仕送りを止めてしまいます。
すでに、カミーユは第1子を妊娠しており、モネには別れることは考えられませんでしたので、この後10年間、苦しい貧困の時代を過ごします。
1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立しますが、1869年と1870年のサロンには続けて落選しました。
1867年8月8日、パリに残していたカミーユが、長男ジャンを出産しますが、父はカミーユとの仲を認めずません。モネは、ル・アーヴルにカミーユを連れて行き父を説得しようとしたが、父はカミーユに会おうとせず、金も出してくれませんでした。
モネは、友人バジールに「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っています。
1868年、ル・アーヴルに滞在しながら制作を続け、1868年のサロンで海景画1点だけが、審査員のシャルル=フランソワ・ドービニーの推薦で入選します。同年6月、フェカンからバジールに宛てた手紙で、依然として経済的苦境にあることを述べ、動転して自殺未遂に及んだことを伝えてました。
『かささぎ』La Pie,1868-69オルセー
しかし、同年9月の手紙で、ル・アーヴルで得たパトロンの支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせています。
同年12月には、エトルタで『かささぎ』などの雪景色を描きました。
1869年サロン、カミーユと長男ジャンを描いた『昼食』が落選。家族とブージヴァル近くのサン・ミッシェルに移り住んだが、お金がなく、電気や暖房がない生活であった。
モネは6月、知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力にあふれています。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙を書いています。
そうした中、親友ルノワールはパンを運んでくれるなど支援します。
モネとルノワールは当時、ラ・グルヌイエールで水面に反射する太陽光をどのように表現するかに熱中していたと言われています。
1869年頃、マネを中心として若手画家たちが集うバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに、モネも招かれるようになり、マネとエドガー・ドガの芸術論の聞き役になりました。
ほかにも、詩人のゾラやポール・セザンヌ、写真家ナダールなども参加しており、この芸術家のグループは「バティニョール派」と呼ばれます。
普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡り、画商デュラン=リュエルと知り合い支援を得ます。
同じ時期、ピサロもロンドンに逃れており、2人は、イギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究しました。
『ひなげし』1873オルセー美術館
1871年12月、フランスに戻、パリ近郊のセーヌ川に面した町アルジャントゥイユにアトリエを構えます。
家を世話してくれたのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネでした。 1872年ごろから1874年ごろまで、第三共和政のフランスは普仏戦争後の復興期にあたり、一時的な好景気を呈しデュラン=リュエルがモネの絵画を多数購入するなどして、経済的には余裕が生まれます。
1873年、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟、批評家テオドール・デュレといった買い手が現れ、そのお金で小さなボートを購入し、アトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作しました。
1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『ひなげし』『印象・日の出』などを出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となるが、開催当時の評価は惨憺たるものでした。
1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、多くの作品を残しています。
家族と落ち着いた幸せな生活を過ごし、息子のジャンも多くの絵に登場させます。
この頃、マネや、ルノワール、シスレーも頻繁にモネを訪ね、モネ家族の生活も絵描いています。
1876年4月、第2回印象派展がデュラン=リュエル画廊で開かれ、モネは18点を出品。
日本の着物を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』も出品、着物のほかにも、扇子を持ったり、うちわが壁に飾られていたりして、典型的ジャポネズリー(日本趣味)の作品でした。(『ラ・ジャポネーズ』はボストン美術館では巡業中で観られず、世田谷美術館のボストン美術館展で観ました。絵ハガキからの超縮小画像です) 『ラ・ジャポネーズ』
1876ボストン
縦4.6メートル、横6メートルという大作です。ギュスターヴ・クールベに批判されたためか、サロンには出品しませんでした。後に、モネ自身によって切断・分割されて、そのうちの中央部分と左部分の2つがパリ・オルセー美術館で展示されています。
代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女』と『シャイイの道』は2点とも入選を果たします。
『緑衣の女』は、当時知り合ったばかりの恋人カミーユをモデルにしたものでした。
この頃、ザカリー・アストリュクの紹介で、マネとも面識を得ました。 1866年のサロンで、エミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙にモネを賞賛する記事を書いた。これを読んだ父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思い、仕送りをしてくれるようになりましたが、新聞で批評家に褒められても絵は売れません。
父はその年の末、カミーユと別れれば再開すると条件をつけて、仕送りを止めてしまいます。
すでに、カミーユは第1子を妊娠しており、モネには別れることは考えられませんでしたので、この後10年間、苦しい貧困の時代を過ごします。
1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立しますが、1869年と1870年のサロンには続けて落選しました。
1867年8月8日、パリに残していたカミーユが、長男ジャンを出産しますが、父はカミーユとの仲を認めずません。モネは、ル・アーヴルにカミーユを連れて行き父を説得しようとしたが、父はカミーユに会おうとせず、金も出してくれませんでした。
モネは、友人バジールに「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っています。
1868年、ル・アーヴルに滞在しながら制作を続け、1868年のサロンで海景画1点だけが、審査員のシャルル=フランソワ・ドービニーの推薦で入選します。同年6月、フェカンからバジールに宛てた手紙で、依然として経済的苦境にあることを述べ、動転して自殺未遂に及んだことを伝えてました。
『かささぎ』La Pie,1868-69オルセー
しかし、同年9月の手紙で、ル・アーヴルで得たパトロンの支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせています。
同年12月には、エトルタで『かささぎ』などの雪景色を描きました。
1869年サロン、カミーユと長男ジャンを描いた『昼食』が落選。家族とブージヴァル近くのサン・ミッシェルに移り住んだが、お金がなく、電気や暖房がない生活であった。
モネは6月、知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力にあふれています。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙を書いています。
そうした中、親友ルノワールはパンを運んでくれるなど支援します。
モネとルノワールは当時、ラ・グルヌイエールで水面に反射する太陽光をどのように表現するかに熱中していたと言われています。
1869年頃、マネを中心として若手画家たちが集うバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに、モネも招かれるようになり、マネとエドガー・ドガの芸術論の聞き役になりました。
ほかにも、詩人のゾラやポール・セザンヌ、写真家ナダールなども参加しており、この芸術家のグループは「バティニョール派」と呼ばれます。
1870年6月28日、ようやくカミーユと正式に結婚。その夏、長男ジャンを連れてノルマンディー地方のリゾート地トルヴィル=シュル=メールに新婚旅行します。ブーダンも妻を連れてトルヴィルに来て、モネと一緒に制作した。このときのモネの作品『トルヴィルの浜辺』には、カミーユと、ブーダンの妻が描かれている。強風の中制作したため、絵具の表面に、吹き上げられた海岸の砂や貝殻の破片が付着していることが知られています。
普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡り、画商デュラン=リュエルと知り合い支援を得ます。
同じ時期、ピサロもロンドンに逃れており、2人は、イギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究しました。
『ひなげし』1873オルセー美術館
1871年12月、フランスに戻、パリ近郊のセーヌ川に面した町アルジャントゥイユにアトリエを構えます。
家を世話してくれたのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネでした。 1872年ごろから1874年ごろまで、第三共和政のフランスは普仏戦争後の復興期にあたり、一時的な好景気を呈しデュラン=リュエルがモネの絵画を多数購入するなどして、経済的には余裕が生まれます。
1873年、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟、批評家テオドール・デュレといった買い手が現れ、そのお金で小さなボートを購入し、アトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作しました。
1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『ひなげし』『印象・日の出』などを出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となるが、開催当時の評価は惨憺たるものでした。
1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、多くの作品を残しています。
家族と落ち着いた幸せな生活を過ごし、息子のジャンも多くの絵に登場させます。
この頃、マネや、ルノワール、シスレーも頻繁にモネを訪ね、モネ家族の生活も絵描いています。
1876年4月、第2回印象派展がデュラン=リュエル画廊で開かれ、モネは18点を出品。
日本の着物を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』も出品、着物のほかにも、扇子を持ったり、うちわが壁に飾られていたりして、典型的ジャポネズリー(日本趣味)の作品でした。(『ラ・ジャポネーズ』はボストン美術館では巡業中で観られず、世田谷美術館のボストン美術館展で観ました。絵ハガキからの超縮小画像です) 『ラ・ジャポネーズ』
1876ボストン
しかし、アルジャントゥイユでの生活に出費がかさんだこともあり、モネは借金に追われ、家具の競売を求められる状況に陥ります。
そのうえ、妻カミーユが病気に倒れ、モネは地主に『草上の昼食』を借金の担保に引き渡し、1878年1月17日、アルジャントゥイユを引き払いました。 3月17日、カミーユとの間に次男、ミシェルが生まれますが、カミーユの健康状態はさらに悪化しいきました。
モネ一家は、1878年9月、マネから引っ越し費用を借りて、セーヌ川の50キロほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移ります。
モネのパトロンだったエルネスト・オシュデが、破産して住むところを失い、妻アリス・と6人の子どもマルト、ブランシュ、シュザンヌ、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人とともに、ヴェトゥイユのモネの家に転がり込み、同居生活を送ることになります。
1879年に病弱の妻カミーユは亡くなります。
エルネスト・オシュデは仕事でパリに戻り、残ったアリスとの関係が深まっていきます。
そのうえ、妻カミーユが病気に倒れ、モネは地主に『草上の昼食』を借金の担保に引き渡し、1878年1月17日、アルジャントゥイユを引き払いました。 3月17日、カミーユとの間に次男、ミシェルが生まれますが、カミーユの健康状態はさらに悪化しいきました。
モネ一家は、1878年9月、マネから引っ越し費用を借りて、セーヌ川の50キロほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移ります。
モネのパトロンだったエルネスト・オシュデが、破産して住むところを失い、妻アリス・と6人の子どもマルト、ブランシュ、シュザンヌ、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人とともに、ヴェトゥイユのモネの家に転がり込み、同居生活を送ることになります。
1879年に病弱の妻カミーユは亡くなります。
エルネスト・オシュデは仕事でパリに戻り、残ったアリスとの関係が深まっていきます。
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