例えば貧乏だけど、今日と明日の食事代が無い、今日の夜は寝る場所がない、電気が止められている、ガスと水道ももうすぐ止められてしまう、小銭が数個しかないの場合絶対的な貧乏状態と言えるだろう。
公園で水を飲み、ネット喫茶にも行けず雨だけしのげる場所で寝るしかない状況も絶対的な貧乏だろう。
そこまでの経験はないが、お金が入るまで数日間を数百円で過ごさなければならなかったのは幾度かある。小麦粉とベイキングパウダーでホットケーキ風を焼いて何食か済ませたことも少なくない。
絶対的な貧乏には、生死を決める肉体的な足りなさがあり予断を許さない恐ろしさがあるので、年末の炊き出しや、子供食堂の運営で命をつなぐ行為にかかわる全ての人に敬服し、感謝する。

一方、相対的な貧乏では感情を痛めつけ、恨みを生み出す。
アメリカでは、多くの家庭で親の世代より貧しい生活を強いられているそうだ。
勤勉に働けば神のご加護で、より良い生活を過ごすことが出来るという、キリスト教の教えは、勤勉に働いても食べるのがやっとで、子供に満足な教育を受けさせることが出来ない人々にとっては、『まだ努力が足りない』と言われているのに等しい。
「誰かが不正を働いているから」「一部の金持ちが金を:独占しているから」と疑問を浮かべる人々を煽る人もいる。
「今この国の政治をつかどっている奴らが、不当なる益を得ている」「移民が仕事を奪っているので仕事が減っている」
黒人をアフリカから連れてきて無賃金で働かせていた人々が言うのだから、説得力もあるが、、、、
投資家、エンジニア、医師、弁護士等高等教育を得た人々が高給を得て、豪華な暮らしをし、その子供たちも優秀な大学をでて、それらの仕事を世襲していく。
ヒラリークリントン氏が「嘆かわしい人々」と切り捨てた、自身で環境を変えられず親の代より貧しくなっていく一群は、世代が変わる毎に絶対的な貧乏層に浸っていく。