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ゴーギャン

Paul Gauguin、1848-1903
1848年パリに生まれる。
父は共和政主義のジャーナリストで2月革命以降、裕福であったが1951年ルイ・ナポレオンのクーデター成功により職を追われ、
母の父が生まれたペルーのリマに家族で逃れるが海路で父は急死する。
7歳までリマで暮らしたためスペイン語を覚えるが、父方の祖父の家があるパリの西北オルレアンに移る。
カトリック系寄宿学校を経てリセ・ジャンヌ・ダルクを終了、水先人見習いになり各国を旅する。
1868~70年 フランス海軍で兵役につき、71年パリ証券取引所に職を得た。ここで3万フランの輸入を得たが同時に絵画取引でも同程度の収入を得ていた。
1873年結婚、5人の子をもうける。このころから絵を描き始める。ピサロをはじめ多くの画家と親交を深める。
76年初めてサロンに入選するも、81,82年の印象派展に落選。
1882年パリの株式市場大暴落し絵画市場も大幅に縮小。絵で食べていく決心をする。
84年一家でオルレアンに移るも、妻がデンマークに戻ったので、当地で商売を試みるも失敗。
85年息子グローヴィスだけつれてパリに行きさまざまな職に就くが、息子が体調を崩し姉の支援を受け寄宿学校に入れた。
86年第8回(最後の)印象派展に出展するも1枚だけ売れた。このころ、ピサロと仲違いしてしまう。
夏、ポンタ・ヴェンに移り、和解が学生と交流する。
87年親友のシャルル・ラヴァルとともにパナマを旅行するが、途中破産し、強制送還される途中バハマのマルティニーク島で下船し5か月ほど過ごし、絵を描いた。のちにそれらの絵は画商の店に展示され、ゴッホと弟テオはこの絵を見て感動し、テオが購入した。

1888年ゴーギャンはアルルのゴッホの黄色い家に9週間一緒に暮らすが、口論の末にゴッホが自分の耳たぶを切り落とす事件が起きて、以降2度と会うことはなかった。

1891年多くの絵が売れて、資金が出来たので念願のタヒチへの旅に出ることにする。コペンハーゲンに妻と子を訪ね出港した。十分な金はなかったので自分で竹のアトリエを建てた。


黄色いキリスト像

Arearea dit aussi Joyeusetes Ⅰ、1892

タヒチの女たち、1891


Paysage, 1901

米国ワシントン ナショナルアートギャラリー
Self-portrait, 1889

Fatata te Miti, 1882

米国メトロポリタン美術館

The Siesta,1892-94