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パラティーナ美術館はウフィツイ対岸のピッテイ宮殿内にあります。 ピッティ宮殿はメディチ家の居住場所、ウフィツイ(オフィスという言葉の原型)は執務場所、ヴェキオ橋の2階部分はメディチ家の人々が二つの巨大な施設を移動するための専用の廊下でした。
ビッティ宮殿内




衣装博物館

パラティーナ美術館
ラファエロ「大公の聖母子」1504

ラファエロがフィレンツェに来た翌年1505年、22歳で着手した作品。トスカーナ大公フェルディナンド3世は、18世紀末、フィレンツェがナポレオンに占領された激動期にこの絵を入手し、生涯にわたって自身の寝室に飾り、フランス軍によって絵が奪われることを恐れ、亡命中も肌身離さず大切にした。

ラファエロ「小椅子の聖母子」1514

ラファエロ「婦人の肖像」1514
通称ラ・ヴェラータ。モデルはパン屋の娘でフォルナリーナ(パン屋の娘の意)と呼ばれる。ラファエロはこの女性と密かな恋愛関係にあったが、ラファエロを支持していた人々の中で最も権威のある人物のひとりビビエーナ枢機卿から姪のマリアとの結婚話を持ちかけられ、野心を持っていたラファエロは、それに従うべくフォルナリーナとの恋愛関係に終止符を打つ。
アンドレア・デル・サルトと共同研究者「マドンナ、4人の聖人と栄光」1530 未完

グイード・レーニ「クレオパトラの死」1635
アクティウスの海戦で、ローマのアウグストゥスに負けたクレオパトラは、コブラに自分の身を咬ませ自殺する。

ルカ・ジョルダーノ「無原罪の妊娠」1680~?
聖母マリアはその懐胎の瞬間から全能の神の特別な恵みと、救主イエスの功のゆえに原罪のすべての汚れから自由であった、とするローマカトリック教会の教義

ナポレオンによってパリに持ち去られてしまったが、「会議は踊る」のウィーン会議でフィレンツェ返還が決定された。
本来はウフィツィ所蔵品??
ジャン・エテイエンス・リオタール「トルコ服を着たフランス王女マリー・アデレードの肖像」1753
フランス王太子(ドーファン)ブルゴーニュ公ルイの妃。フランス王ルイ15世の母。
サヴォイア(現在のイタリア北西部とフランス東部サヴォワ地方やジュネーヴ(現スイス)も含んだ。)公、ヴィットーリオ・アメデーオ2世と王妃アンナ・マリーア(オルレアン公フィリップ1世の娘)の長女。

フランシスコ・ゴヤ

「チンチョン伯爵夫人マリア・テレジア」マリア・テレサ・デ・ボルボーン・イ・バリャブリガ1798
スペイン宰相マヌエル・デ・ゴドイの妻、結婚によってマリア・テレサと家族は年金を得て、初代ボアディリャ・デル・モンテ侯爵、第15代チンチョン伯といった称号を獲得し、スペイン貴族(グランデ)の一員となった。

ジャン・バプティスト・シメオン・シャルダン「ラケットを持つ少女」1741

ジャン・バプティスト・シメオン・シャルダン「トランプで城を作る少年」1740