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藤田 嗣治(ふじた つぐはる) フランスに帰化し洗礼を受けて、レオナール・ツグハル・フジタ(Léonard Tsugouharu Foujita)となりました、

1920年代のパリで活動、黒い猫と独特の白い肌の女性の絵は高く評価されました。
藤田の父は森鷗外の後任として陸軍軍医総監(中将クラス)にまで昇進する名家の出身でした、鴎外の勧めもあり美術学校に通い作品を展覧会に出展するも落選が続いた。フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ1913年渡航。最初の結婚は1年余りで終わった。
当時のパリの町外れの新興地で家賃の安いモンパルナスに暮らした。隣の部屋に住む「親友」と呼んだモディリアーニやスーティンらと知り合い、彼らを通じパスキン、ピカソ、キスリング、コクトーらとも知り合います。
翌年、第一次世界大戦が始まり、送金が途絶えた藤田は自分の絵を燃やして暖を取るほど困窮します、1917年戦局が好転しモデルと結婚、絵も売れ始めました。お湯の出るバスタブを持つモンパルナスでは裕福な画家であり、この風呂を目当てに来るモデルもいました。
掲載の1922年Nu couché à la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)①は話題になり高額8000フラン以上で売れました。
浮気や離婚・再々結婚もあり、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほど。1925年フランスのレジオン・ドヌール勲章、ベルギーのレオポルド勲章を贈られています。

1940年
時代に翻弄され踊り狂う自分自身かもしれない②

1931年には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
1933年に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代と出会い、一目惚れ翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。
1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ日本帰国。

『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』1941年作
・1939年ノモンハン事件について、別にもう一枚悲惨な戦争画を描いたという。③

日本に帰国後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画作品を描いている。
サイパン島玉砕・市民④

『アッツ島玉砕』⑤

フランスに帰化⑥
終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されることもあり、1949年に日本を去ることとなった。
フランスに戻ってもマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消)。1957年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。

子供の絵の画像は渋谷文化村の展示会資料より
 


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